斎藤 孝、48歳。
白髪交じりで貫録たっぷりに白衣を着こなす。
ベテラン医師?いいえ、彼はNYの病院でトレーニングを受けている新米ドクターだ。
「僕はもともと商社マンだったんですよ」
医師を目指す前は、16年間も商社マンとして働いていた斎藤さん。まったく違うフィールドへ「転職」を決意し、見事に夢を叶えたゴーゲッターだ。

熱血商社マンとしての日々
父親が海外を飛び回る商社マンだった影響で漠然と海外で働く仕事につきたいと考えていたという斎藤さん。 大学卒業後は、大手商社に就職をした。 バブル景気の余韻が残っていた時代、商社マンは人気の職業だった。 そして商社マンの憧れの駐在先はアメリカだった。 斎藤さんは、いつかアメリカに行きたいなあと先輩たちの活躍を横目にみながら 中南米マーケットへのタイヤの輸出業務に携わっていた。
28歳の時にアメリカ行きのチャンスがきた。
シアトルに3か月間滞在をした。 この時に、自分はアメリカで仕事がしたい!とはっきり思ったそうだ。 しかし、若手がアメリカ駐在になるのはむずかしい。
「自分が中心となるアメリカでのプロジェクトを計画しよう!」
ゴーゲッターな斎藤さんは、綿密なリサーチをし、日本の建材メーカーのテクノロジーをアメリカの建設市場へ売り込むことを考えた。アメリカにはまだないテクノロジーであることを立証し、新たなマーケットを築けると上司に提案をした。
「頭のキレは無いが、諦めない自信だけはあるんですよ」
そう斎藤さんは語る。
そして30歳の時、計画通りアメリカ駐在の辞令を手にいれた。
ジョージア州アトランタに建材メーカーの子会社を設立し、自分が中心となってアメリカでのビジネス展開をしていくのだ。 念願のアメリカ駐在員生活が始まった。
ゼロからのビジネス立ち上げ、仕事は忙しい。
しかし、斎藤さんにはもうひとつの計画があった。 ビジネススクールに通い、MBAをとることだ。
マーケティングの勉強がしたかった。 平日は朝から晩まで仕事にあけくれ、週末は授業。 4年かかったが、MBAを習得。 計画したことは、実行し、結果を出す。 それが斎藤さんの生き方だ。
運命を変えたボランティアワーク
念願のアメリカ生活は順調であった。 コミュニティーの一員としてさまざまな活動にも参加した。 友人に誘われてAIDS末期の人たちに食事を届けるボランティアもした。 届けるエリアはアトランタでも治安の悪いところが多かった。危険だからペアで行動をするようにいわれていたが斎藤さんのパートナーは、「こんな気が滅入ることはしたくない」とすぐにやめてしまった。しかたないので斎藤さんはひとりでスラムのようなところに住む人々に2年間食事を届けていた。
薬を飲まなくてはいけないのに飲まない。お金がなくて薬を買えない人もいた。米国のHIV感染者の6割はゲイの男性だ。パートナーが感染しているのに関係を絶たない。 感染症は防げるものなのに、なぜ防ごうとしないのだろうか。 どんな気持ちで生きているのだろうか。 食事を届ける先々の人間模様が気になった。
「今、思えばあの頃が僕の人生の転機だったんですね」
斎藤さんはいう。 商社マンとしての仕事に情熱をかけていた。 しかし、サラリーマンには定年がある。 どんなに今エネルギーを注いでいても20年後には定年という現実が待っている。 一生続けられる仕事がしたいなあ、と漠然と思い始めていた。
自分は会社の利益を追求することだけに汗水流しているだけではないのか?
一体誰のためにやっているのだろうか?
誰が幸せになっているのだろうか?
同じエネルギーを注ぐなら誰のためにやっているかはっきりと分かる仕事がしたい。
ボランティアをしてそう思うようにもなっていた。
「そうだ、医者になろう」
「感染症の専門医になろう」
そう思ったのは37歳の時だった。 MBAを取った州立大学に籍を残し、プリメド(Pre-medical)の授業を取り始めた。プリメドとは 米国のメディカルスクールに入学するための必須科目。一般的には4年制大学在学中に取っておく。大学レベルの数学、生物、無機/有機化学、分子生物学、物理、英語、心理学など 。これらは全て学部の授業なので週末の授業は無い。ほとんど授業にはでられなかった。でも成績を限りなくオールAにすべく必死で勉強した。何故なら、プリメドの成績がメディカルスクールへの合否を左右するからだ。
ちょうど40歳に手が届く頃、日本へ帰国辞令が出た。
斎藤さんは、アメリカに残って医師になることを決意する。
「医師になりたいので会社をやめさせてください」
何を言われるかと心配をしていたが上司からはあたたかい言葉をもらった。
「2年間は戻ってこれるようにしてやる。2年がんばってダメだったら帰ってこい」
商社マン生活16年。
いい上司に恵まれ、幸せだった。
ビジネスに没頭した日々と別れを告げた。 さあ、どうやったらアメリカに居続けられるか?帰国とともに就労ビザが切れてしまい、プリメドを進めていた大学の籍を失ってしまう。コミュニティーカレッジでもいいから一時帰国までに入学許可(I-20)を手に入れておかねばならない。さもなければアメリカに戻ってこられない。
帰国の日がせまるなか斎藤さんは、コミュニティーカレッジのオフィスにかけこんだ。中年の日本人がこれからアメリカで医師になりたいから勉強をさせてくれと熱弁をふるう。一時帰国の日がせまっているので早くI-20を発行してほしいと懇願する。
「いってみるもんですよね、通常6週間かかるところを1週間で出してくれました」
オフィスのおじさんも中年男のチャレンジを叶えてあげたかったのだろう。 いろんな人の協力があり、医師を目指しての学びの準備が整った。
勉強に明け暮れる日々
コミュニティーカレッジの同級生は18歳。 遊びたいさかりの若者たちだ。 自分が目指すのはメディカルスクール入学。そして医師になること。 そのために仕事もやめたのだ。遊んでいる時間などない。 なんでも真面目に迎え撃った。プリメドで唯一残っていた有機化学を取った。学生ビザを維持する為に一学期に12単位を取らねばならない。必要の無い科目も取った。 成績はパーフェクト。授業料も免除になった。メディカルスクールを受験するために必要な MCAT(The Medical College Admission Test) の勉強に集中した。スコアを上げるのが極めて難しい試験。思うような成績が取れずにメディカルスクールを断念する者も出てくる。もの凄いプレッシャーだ。かなり苦戦した。
1年目、まあまあのスコア。40校を受験。そして全滅。
人生始まって以来の敗北。
新卒ではない。そのうえ外国籍。
「負けてたまるか!絶対医師になってやる!」
斎藤さんはもう1年ひたすら勉強をした
2年目、スコアはまるっきり同じだった。40校を受験。そして!
2校に受かった!
43歳で、ペンシルバニア州のメディカルスクールに入学。
日本では医学部は6年間。 アメリカのメディカルスクールは4年間。但し4年制大学を卒業しなければ受験出来ない。学校にもよるが、最初の2年間は基礎科学を勉強、その後医師国家試験の第一弾であるSTEP1を受け、合格した者が3年目からの臨床実習を受ける。3年目が終わると第二弾のSTEP2が待っている。片時も息が付けない極めて過酷なスケジュールだ。
入学してからの勉強量は想像を絶した。1日10時間勉強をしてもいい成績がとれない。アドバイザーにもっと頑張るように発破をかけられた。 毎日倒れるまで勉強し、翌朝なんとか起き上がり、また倒れるまで勉強。 クラスメイトを見るとアスリートが多いのに驚いた。根性と体力がないとつづかないのだ。自分も学生時代は体育会ラグビー部で汗を流した。
「負けてたまるか」
がむしゃらに勉強をした。クラスメイトもこの20歳以上も年上の同級生に力を貸してくれた。 ストレスと過労で心筋梗塞で倒れた。生死をさまよった。 医師や看護師など様々な医療従事者に命を救ってもらった。妻も献身的に看病してくれた。年老いた母親も遠路ピッツバーグまで看病に来てくれた。沢山の人に助けられて数ヶ月で戦線復帰出来た。

「自分も早く人を救ってあげられるようになりたい」
今日も明日も学びは続く。
現在NYで内科研修医してトレーニング中。

一年後に研修を終えたら感染症の専門医を目指すつもりだという。病院のあるNYのブロンクス地区は米国で最貧で、HIV感染率、結核や性病罹患率が全米で最も高い地域。犯罪率も極めて高い。それゆえ新米医師として様々な症例に臨める。研修医になるならここしかないと思ったという。
自分の手で、患者の人生を変えてみせる。
誰かのベネフィットになることを追求していく。
商社マンからの転身。
学ぶことが好きだから
知的好奇心がつよいから
自分の可能性を信じているから
自分のパッションを理解してくれる人たちとの出会いがあったから
ミスター・ゴーゲッター 斉藤たかしは、はっきりとした目標を胸に、今日も白衣をまとい我が道を行く。
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