The Voicers Report は、世界各地で活躍する10人のゴーゲッターで構成された The Voicers が各々の活躍の現場から情報発信をしていきます。
今回は、Mr.and Ms.GoGetterz でもフィーチャーされた、離島育ちの視点から時代を読み込むライター&バー店主の宮国優子さんです。
最近、人の悩みは究極的には、人間関係にあるのではないかと思うようになりました。
複雑化した現代社会とはいえ、限られた24時間と「自分」というただひとつの肉体は、今も昔も変わりません。
ただ、時代とともに多くの人と社会的に関わることが、リアルでもネットでも劇的に多くなったのだと思います。
そう遠くない昔から、人びとは「人間関係」は悩みのタネだっただったはずなのに、さらに人間関係が広がることによって、苦しみも増えたのかもしれません。
一方、人間関係が広がることで、かつて想像し得なかった喜びが増す人も同じようにいるはずですが。
ひとは、誰かとこじれた時、本来の自分の感情について考えることを忘れてしまいます。
傷つかないように「距離を置く」というのはよく聞きますが、距離を置けないから、悩みになるのでしょう。
ふと、考えました。
距離を置くことで、相手へのマイナスの感情は減るのでしょうか。
ただの意見が違う相手なのかもしれません。
苦手意識の方が先にたって、逃げたくなる気持ちもあるでしょう。
自分にとって良い相手は「毒にも薬にもならない、刺激のない人間関係なのかもしれない」という側面もあります。
そもそも相手は自分とは別の人間です。違って当たり前なのです。
自分から見たら嫌な部分も、他の人から見たら美徳かもしれません。
相手のことを嫌いになる前に、相手をどれほど知っているのでしょうか。
その相手が、その言動や行動をするには必ず理由があるはずです。
その理由を知れば、腑に落ちるし、無理なく自然に相手を自分から良い距離におけるのだと思います。
そして、実は、人間関係のトラブルは、双方の「環境の違い」や「時代性」が大きく影響しているのではないかと思うのです。
考え方はもちろん、やり取りする言葉は、相手のバックグラウンドに非常に関係していて、そのミスマッチ感や話の流れが追い風になって苦手意識はつのっていくだけかもしれません。
そう考えると、トラブルが起こっても「自分のせいでもなければ、誰のせいでもない」と考えることができます。
違いを明確にし、お互いの了解が取れれば、適度な距離を保つことができるかもしれません。
苦手だからすぐに距離を置くのではなく、理解するために時間をかける必要があることだと思うのです。
それは、相手のためではありません。
自分が腑に落ちて、自然に「適度な心の距離をおける」ためです。
苦手な人に対面したとき、ぎくしゃくした自分の行動の不自然さを自分自身もうっすらわかっているはずです。
長々と書きましたが、最近の自分の身の回りに起こっていることを考えると、今のところ、以上のようなことを考えています。
そして、現在、自分の脳内を占めている大きな存在を理解するために、人間関係について一度整理したいと思ったのでした。
私が研究している下川凹天のバイオグラフィをまじまじと眺めていると感じるのです。
私はこの人を嫌いであると同時に、とても好きなのです。
好きだと言う言葉では、表現できない、引力のようなものに惹かれるのです。
この世にいない人でも、彼の残した作品から、私は彼という人間に近づき、感嘆し、熱狂し、時には嫌悪しながら、時空をこえて、いっしょに生きているようにすら感じるのです。
時代のエネルギーのままに生きた「下川凹天」というひと
人を取り巻く環境や流れは、一個人でどうにかなるものではないと考えています。 何か問題が起こったとき「誰かのせいにして問題をうやむやにする」「本心でない謝罪で場がおさまったようになる」ことで、表層の解決は簡単にできるでしょう。 でも、また同じような壁にはぶつかるような気がします。 相手や物事に真剣に向き合えば、逃げないで、譲り合って、時間がかかるかもしれません。 でも、二度と同じことでは悩まなくなります。時間をかけた分だけ、逃げたときよりも気づきが多いような気がします。 「この人は、そう生きるしかなかった。そう思わざるを得なかった」ということを腑に落ちるまで向かうことでしか、究極の人間関係のトラブルは避けられないように思うのです。 自分が相手にとって完璧でないように、相手も自分には完璧ではないのです。 私がこんなことをいちいち考え始めたのは、今、研究中の下川凹天(しもかわ・へこてん)について調べていくうちでした。 日本アニメーションの始祖で、名前通り、凸凹な人生を歩んだ人でもあります。 日本のアニメーションは、今や「クールジャパン」の代表選手のひとつ。 そして、今年は、日本アニメ制作から100年目にあたります。 これから彼を知っていく人は格段に増えると思います。 彼は、宮古島出身で、日本で初めてアニメを作りました。 風刺画家、漫画家、文筆家。当時は人気がありましたが、現在はあまり知られている人物ではありません。 私は、ひょんなことから同郷の宮古島出身ということもあり、彼を研究することになりました。 今は、調べれば調べるほど、彼の人間的魅力に引き込まれていきます。 時代のエネルギーに翻弄されても、自分らしさを追求して生きていく、その様子に心を打たれるのです。 何か理想像があったようには思えません。 ただ、自分の自我に真摯であったゆえに、時には醜悪な自分らしさにつながっていったと見るべきでしょう。 彼は、宮古島という離島の経済的な貧しさと裏腹な、何か言葉にならない豊かさを持ち合わせていたような、二面性のある人物です。
振り返って、考える。私たちがこの百年で変わったのだろうか
ニュースのトピックを見ていると、この現代は「皆が同じ時代を生きている」と言えます。 ですが、ひとりひとりが「その社会をどう内面化しているか」ということとは、大きく違います。 同じ情報でも受け取り方で、違った結論が導き出されるからです。 ある程度、本音を言い合う身近な人間関係で、イザコザが多く、そして近ければ近いほど「意見がちがうこと」がダメージとして大きいものです。 それは同じだった、シンパシーを感じていた、と思えた人の別の側面を見たようで、ショックを受けるからでしょう。 忘れてしまいがちですが、いくら本音を言い合ったとしても、その人自身の全体とつきあっているわけではありません。 そして、本人すら知らない自分というものが、他人の目には映ることがあります。 すべからく、受け手の問題であって、本人がコントロールできるものではありません。 さらに言えば「江戸っ子は三代続かないと江戸っ子ではない」というような言葉にもあるように、三代目くらいで、やっとその土地や風土にあった人が育つようになっているのだと思います。 現代は、昔に比べて、人の移動も激しく、時代の移り変わりも激しく、親と同じような環境で子どもを育てることは難しくなってきました。 その土地から成り立つ自然の一部のような人間性が育まれるのは至難の業かもしれません。 一人の人間でも、両親や祖父母の地域の慣習を、知らず知らずのうちに身に携えています。 近所の友だちが一見同じように思えても、ただ今この時、この場所に同時に生きているだけで、慣習によって内面化されている情景というのはまったく違うものかもしれないのです。 例えば、私のような離島育ちの親に育てられた東京の子と、青森育ちの親に育てられた東京の子は、同じイメージを生きていないのではないかと思うのです。 親が外国人なら、さらにその内面化の差は広がるかもしれません。齟齬が出てくるのは当たり前と言えば、当たり前です。 それは脳内イメージのなかで、すでに同じ時代や常識を生きていないのと等しいのです。 「三つ子の魂、百まで」という前提で考えると、人は風土やどんな親に育てられたか、どういう環境で育ったかで、道徳観や人を見る目の優しさはちがうものです。 田舎の人が温かいわけではなく、都会の人も特別冷たいわけでもなく、人それぞれなのです。 さらに言えば、どちらが良いとか悪いとかではありません。 広い視野を持つと浅くなるかもしれず、深い洞察をもてば視野は狭くなるのかもしれない・・・。 一概に何とも言えない答えの出ないようなものです。 それは、まさしく人間関係と同類項の問題のような気がします。